2010年12月9日木曜日

牽牛子塚古墳は天智天皇母、斉明天皇陵か?

斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が葬られたとみられる奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の前に造られた古墳が新たに見つかった。孫の大田皇女の墓とみられる越塚御門古墳。中大兄皇子(天智天皇)が埋葬してから1300年余りの時を経て、日本書紀に記された肉親3女性をめぐる古代史のドラマがよみがえる。

斉明天皇は中大兄皇子、大海人皇子(天武天皇)の母。661年、朝鮮半島の百済を救援するために遠征していた朝倉宮(福岡県)で亡くなった。中大兄が指揮する日本軍は663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗。665年には妹の間人が亡くなった。大田は中大兄の長女で、大海人の妻。2人の子を残して若くして亡くなり、667年2月に斉明、間人を合葬した陵の前の墓に葬られたと日本書紀が伝える。

わずか6年で最も親しい3女性を相次いで失った中大兄が、都を飛鳥から近江大津宮(大津市)に移したのは、3人を埋葬した翌月だった。牽牛子塚、越塚御門の堅固な構造に、前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は「飛鳥を去る前に、親しかった女性たちの墓をしっかり造りたかったのだろう」と心境を思いやる。

大田の墓とみられる越塚御門。牽牛子塚に向かう道から遠目に見ると、牽牛子塚に抱かれているかのようだ。大田は斉明の初孫だった。

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳(7世紀後半)の隣接地から、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる古墳が見つかったと、村教委が9日発表

斉明天皇陵の前に大田皇女を葬ったとする「日本書紀」の記述と合致し、牽牛子塚古墳が真の斉明陵であることが決定的となった。宮内庁は、南西に約2・5キロ離れた車木(くるまき)ケンノウ古墳(同県高取町)を斉明陵に指定しており、指定のあり方を巡って論議を呼びそうだ。

645年大化の改新、天智天皇、天武天皇は有名な天皇です。

宮内庁と科学的な論争はどうなるんでしょうか??

 牽牛子塚古墳(1)と天武・持統合葬陵(2)=奈良県明日香村で共同通信社ヘリから


牽牛子塚の隣で古墳発見
 

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